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フランク・ホワイト(Frank White, Jr. , 1950年9月4日 - )は、アメリカ合衆国・ミシシッピ州グリーンビル出身の元プロ野球選手(二塁手)。右投右打。 カンザスシティ・ロイヤルズ一筋にプレーした1970年代後半から1980年代を代表する名二塁手。 == 経歴 == 高校時代以後をカンザスシティ近くで過ごす。当時、アスレチックスがカンザスシティに本拠地( - )を置いており、試合をよく観にいったという。「レジー・ジャクソンがデビューした頃のこととか、よく覚えてるよ」と語っている。 、ア・リーグが12球団に拡張された際、カンザスシティ・ロイヤルズが新たに誕生。ロイヤルズが開設した野球学校を卒業してにドラフト外でプロ入り〔「球団別永久欠番物語 カンザスシティ・ロイヤルズ」『月刊メジャー・リーグ』 2002年12月号 ベースボール・マガジン社 61頁〕。6月12日にメジャーデビュー。軽快な守備と、長打力こそやや低いが勝負強い打撃で、1970年代後半から1980年代にかけて、ルー・ウィテカー(デトロイト・タイガース)、ウィリー・ランドルフ(ニューヨーク・ヤンキース)と共にア・リーグを代表する二塁手として活躍。には62試合連続無失策を記録し、初のゴールドグラブ賞を受賞。この年からの6年連続を含み、通算8回同賞を受賞した。9月26日にはサイクルヒットを達成。のヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズではチームをワールドシリーズに導き、MVPに選ばれた。LCSのMVP表彰は同年始まったばかりで、その第一号となった。オフにはロイヤルズ単独チームの一員として来日し、各地で軽快な守備を披露した。 までは最多でも11本塁打であったが、徐々に長打力がつき、には17本塁打、には22本塁打を放つ。この年チームはALCSでトロント・ブルージェイズ相手に1勝3敗の不利な状態から3連勝してリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでもセントルイス・カージナルス相手に1勝3敗から3連勝して、球団創設以来初のワールドチャンピオンに輝く。にも22本塁打、自己最多の84打点を記録し、36歳にしてシルバースラッガー賞を受賞。この年出場したオールスターでは、マイク・スコットから本塁打を打った。出場するにあたって、チームのリー・メイ打撃コーチ(南海でプレーしたカルロス・メイの兄)から、「せっかく出るのならホームランを狙ってこい」と言われていた。開催地ヒューストン・アストロズのスコットに2ストライク0ボールと追い込まれたが、地元のファンが三球三振を望んでスコットに大声援を送っており、これにこたえて3球勝負をしてくると読み、思いっきり振ったところ、本塁打になったという。また同年オフには、メジャーリーグオールスターの一員として日米野球で来日。このシリーズではトニー・ペーニャ捕手(当時ピッツバーグ・パイレーツ)が座ったまま二塁に牽制球を投げて、落合博満を刺したプレーが有名になったが、この時の二塁手はホワイトであった。チームどころかリーグまで異なる選手との見事なコンビネーションであった。 限りで現役を引退。5月2日には現役時代の背番号「20」が永久欠番となった。同年、ロイヤルズの殿堂入りを果たす。引退後は、ボストン・レッドソックスのコーチ、ロイヤルズのコーチや傘下マイナーの監督、フロントの要職や解説者を務めた。 長年のチームメイトジョージ・ブレットとは1914試合に共に出場した。これは、守備位置を問わず、二人の選手が同じチームで出場した試合数のア・リーグ記録であったが、1995年にルー・ウィテカーとアラン・トランメルのタイガースのキーストン・コンビ(1918試合)によって破られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランク・ホワイト (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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